鶴間で『憂歌団』ライブ!〜その1









 鶴間の空きビルでの、10周年のライブ・バンド・パーティーが終了してからしばらくは、

その余韻につつまれたお客さん達が、バラバラと現れては、あーだの、こーだの、と自分勝手な批評を付け加えながら、

いつもの中途半端な盛り上がり見せ、飲み会が始まる。

 ?  本当に安上がりな楽しいパーティーだった、これも高下ビルのオーナーやボランティアのお陰です。

空きビルが塞がらないうちにもう一度ぐらいライブでも出来ないかな?

ハコとしては申し分ない広さである。

あそこを一杯に出来る位のバンドをやれば、この街の音楽ファンは今よりは盛り上がるのは間違いない、

そうだ!『憂歌団』を呼ぼう!なんて勝手に決め込んだりしていた。

 ??  この年、1986年7月に、第1回目のブルース・カーニバルが日比谷野外音楽堂で開催された。

なんと、『菩南座』10周年と同年であったとは、最近になって気がついた。

 ?  このカーニバルは国内外のブルーズ・マンを集めて、夏の青空の下で、ビールでも飲みながら聴ける、開放的なパーティなのです。

今では年に一度の一大イベントとなり、名称も「ジャパン・ブルーズ&ソール・カーニバル」と変わり、より幅広く音楽の窓口を開けている。

これまでに来日した出演者の顔ぶれは、

バディ・ガイ、

オーティス・ラッシュ、

アルバート・コリンズ

B.B.キング、

ルファース・トーマス、

クラレンス・ゲイトマウス・ブラウン、

ドクター・ジョン

アール・キング

ジョニー・アダムス

アルバート・キング

オーティス・クレイ

ビッグ・ミュージシャン達が祭典を盛り上げてきた。

中でも残念だったのが、1996年のカーニバルのために来日していたジョニー・ギターワトソンが、

横浜のライブハウスに単独出演中、心筋梗塞で倒れ、そのまま他界するという事件であった。

オイラの好きなミュージシャンのひとりであった。 本当に惜しい人を亡くしました。?

それはさておき、日本のミュージシャンもたくさん活躍していた。

『憂歌団』

竹田和夫

シーナ&ロケッツ

永井"ホトケ"隆

上田正樹

近藤房之介

など、まだまだ大勢いるた。

オイラは仕事をほったらかしてよく出掛けたものです。?

 ?  さて、その第一回ブルーズ・カーニバル、7月13日(日)に日比谷野外音楽堂へ行った時のことだ。

?  上天気の真夏の空は雲ひとつなく、森に囲まれたお昼過ぎの会場は風もなく、じんわりと蒸し暑く感じる。

米軍から仕入れた冷たいバドワイザー数ケースと共に、お昼頃、野音のバックステージに潜り込んだ。

目指すは『憂歌団』のマネジャー玉井氏である。

忙しく立ち回っているスタッフの中に玉井氏を見つけると、挨拶もそこそこに『菩南座』のライブの計画を話してみた。

即座に決められる話ではないので、概要だけ感単に説明してをいて、あとは後日ということで、オイラはコンサートを楽しむことにした。

? 『憂歌団』が東京や横浜でライブがあるときは、オイラに予定がない限りはライブに出かけていた。

それは京都以来続いている、オイラにとっての楽しみのひとつであった。

当然、マネジャーの玉井まさじ氏に会う機会も増え、メンバーと打ち上げに行く機会が増えたりしていた。

時には業界のファンと同席することもある。 記憶では、作家の景山民夫、俳優の役所浩司などもいた。

どこのライブハウスへ行っても大入り満席で、立ち見が出るのは当たり前だ。 今でもはっきり覚えていることがある。

TVのお昼番組で、タモリが司会の「笑っていいとも!」に憂歌団の木村秀勝(充揮)が紹介され、出演したのが、この年のことである。

『菩南座』でのライブの話は先に進み、多少の問題を残して、順調に交渉が成立したのは、それから何日もかかりませんでした。

関東方面のライブに合わせて、こちらにやって来るのだ。

俄然、オイラが張り切らねばことが収まらない。?

 ? まず、会場は、鶴間駅前の例の空きビルです。 涼しい季節を選んで(冷暖房無しの空きビルのため)、10月26日(日曜日)に決め、8月に入ってから準備にかかった。

ところが間近になり、空きビルの1階に何やら内装工事が始まった。

あれっ?と思う間に焼き鳥屋がオープンしたのだ。

 ?  2階だから関係がないようだが、重大な問題があるのだ。 それはトイレである。

前回のパーティーでは1階が空いていて、そこのトイレを開放してもらっていたのである。 「困った!」。

屋上にもビァガーデン用のトイレがあるのだが、以前に詰まったりして使いものにはならない。

いろいろ考えた末、それなればそこの焼き鳥屋の親父を抱き込んで、「一緒にやらないか」と持ちかけてみた。

焼き鳥をライブ会場で販売する権利を与える代わりに、トイレを使わせてもらう,我ながらうまい話ではないだろうか。

焼き鳥屋の親父さんは『憂歌団』の人気を知っていて、喜んで協力してくれることになり、一件落着。

ライブのタイトルは「憂歌団、やきとりコンサート」となった。??

  手書きのポスターに、赤提灯に『憂歌団』の看板、手作りのTシャツを制作をしたりして、遊びに来るお客さん達も盛り上がり始めていた。

残るのは音響の手配と、ボランテアの人数が決まれば、もう時を待つばかりであった。

ここまでは7月ごろのことである。 ?  しかし、又してもとんでもない事態が起こったのだ!

空きビルに入居者が決まったというのである。

「えっ!」「何で今頃に!」? 

今まで借り手が付かないで何年もほったらかしのボロビルに、と思うと、非常に残酷な一大事件である。

前々からのそういう条件であったのだから仕方のないところもある。?(以下、続く)






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