1977年の鶴間から



横浜の映画館で「BONANZA」の宣伝のスライドが流れていた??

?  もちろんオイラの店ではない。カントリー&ウエスタン専門のライブ屋さんで、出演者が凄(すご)い。

寺本圭一とカントリー・ジェントルマン、

小坂一也とワゴン・マスターズ!

日劇のウエスタンカーニバルの常連バンドではないか。経営者は西部劇なんかが大好きだったりして。

でもオイラは困る。同名の店で、しかもライブ屋さんじゃ、鶴間の田舎の方は小さいし、みじめだよ。

そこで「BONANZA」から意味不明の当て字で「菩南座」に変更したのだ。今では気に入っている。

パソコンの検索では漢字だとオイラの所だけだ。即、出るぞ〜。

1977年、学園祭では「久保田麻琴&夕焼け楽団」が人気であった「夕焼け祭り」のイベントもこの頃だと思う。

??  そのバンドのメンバーが店の近くに住んでいるらしいという。久保田麻琴が鶴間駅で降りるのを見たとか、

さらに元「ダウンタウンブギウギバンド」のドラムスの相原誠に会ったとか、お客さんの情報が入るようになり、

“まさかこんな田舎町に”と思っていたが、米軍の払い下げ住宅が沢山あった時なので、考えられないことではなかった。

横田基地のある福生あたりには、芸術家のタマゴやミュージシャン達がアメリカ文化に溶け込むように住んでいたのでうなずけるところだ。

??  後で分かったことなのだが、その頃、これだけのミュージシャンが近くに住んでいた。

? 久保田麻琴&夕焼け楽団/サンデー(vo)井上憲一(g)藤田洋麻(g)恩蔵隆(b)

オレンジカウンティ・ブラザーズ/中尾淳一(g)倉田義彦(ds)

ボブズ・フィシュマーケット/敦賀隆(vo,g)日暮「日倉士」歳郎(g)

他に、相原誠(ds)長洲辰三(b)古家杏子(key)BOB斉藤(sax)

及川正道(hp,vo)&オーマンゴー(「週刊ぴあ」のイラストレーター)

街の様子も少しずつ変わっていくのが分かる。

大和に本格的なライブハウス「UFO」がオープンした。

鶴間ではロック・バーや米国直輸入の古着屋とかハーレー専門のカスタムバイク屋などが次々とオープンして、

やたらとアメリカ的な感じの店が増え始めたのだ。

店にはロック好きな若者達に混ざって、上瀬谷通信隊や座間、厚木基地の米兵が隠れ家に集まるように遊びに来るようになった。

バンドの方も下北沢や西荻あたりから演奏に来るようになり、ライブのスケジュールが賑(にぎ)やかになってきた。

しかし残念なことは、余りにも求めているものの違いがありすぎて、いつもライブ日は身内だけの淋しい時間となり、

米兵はライブが終わったのを見計らうように飲みに来るのだ。

ベトナム戦争もとっくに終わり、音楽の中に血肉が沸き、脳ミソがぶっ飛ぶような音が欲しいのだが、

四畳半ライブではまず無理な話だ。大和のライブハウスではデビュー前の「子供バンド」や「TENSOW」のライブをガンガンやっていた。

店は広いし、音響設備がととのっていて文句なし、オイラの店とは比べものにならない。

何とかして音だけでもと思ってはみたが、先立つものがない。無念だ!

最近になって、井上憲一(以後ケニー)とマネジャーが毎晩のように遊びに来るようになった。

東京のスタジオでレコーデングをしている最中で、店に来るのはほとんど深夜である。

ある夜、いつものように、ケニーと近所の常連をまじえてグラスをかたむけていると、そこへ赤い顔した米兵が二人連れで入ってきた。

陽気な奴らで、ビールをラッパ飲みにしながらお客の職業を聞いてくる。そして自分のヒッピー時代の写真を取り出して、

「俺も、お前みたいに、髪は長かった」と自慢ばなしがはじまった。

ボブ・ディランやグレートフル・デットのコンサートに行って、葉っぱちゃんで楽しんだこと等々……。

オイラの語学は中学以下なので、ケニーに訳してもらい、それにお客はうなずく「フゥ〜ン アイシー?」なんてね。

だいぶ気分よく飲んでた米兵は「ギターをして聴かせてほしい」と。

ケニーはにっこり笑ってゆっくりタバコの火を消し、店のおんぼろギターを手に取ると、

アルバム「レイジー・ベビー。ケニー」の中から、「A列車のラグ」「デルタドーン」など数曲を聴かせてくれた。

米兵は感動の余り拍手喝采に握手を求め、夜明け近くなるとカウンターにはビール瓶の林ができていた。(以下続く)






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