1978年の胎動


 
1978年3月18日(土)「妹尾隆一郎」&「井上憲一」 ライブ!?

?  まず最近ではない、珍しいデュオ・ライブだと思う。『夕焼け楽団』のアルバムに、ほとんど参加しているだったので実現したのだ。

「妹尾隆一=“ウィーピング・ハープ・セノウ”」を初めて聴いたのが1970年代、西新宿のライブハウス「MAGAZINE NO1/2」であった。

現在オイラの所にその実況録音盤がある。

1973年4月に制作されたここには、『レィジー・キム・バンド』や、現在でも活躍している『ウエストロード・ブルーズ・バンド』など、

懐かしいブルーズメンの若い頃の歌声が入っている。

??  さて、「菩南座」での初取り組みだが、小さな飲み屋の演奏会に、よくも入ったと思うくらい集まり、飯場小屋的宴会ライブとなった。

「ケニー」の歌とギターの中に忍び寄るかのようにハープが入り、震え泣き、「セノウ」も歌う。

「ケニー」のエイモス・ギャレット張りのギターが、たまらなく聴かせる。今その時に録音したテープを聴きながら書いているが、

満杯の四畳半で昔も今も変わりなく「セノウ」が関西弁で喋りまくり、歌と笑いの渦の中で思いつくままにブルーズの話題を取り上げて、

凄い勢いでライブがつづく。

そして最後のアンコールでは「セノウ」が、「そんなに聴きたきゃ金投げろ〜!」って騒いでいる。

彼の勘違いでノーギャラ・ライブだと思ったらしい。

??  “投げ銭ライブ”と言えば、以前に流しのギターリストの“演歌師ライブ”を思い出す。

あの時は“投げ銭”と“おひねり”が一緒になって、彼らにとってはいい稼ぎになったと思う。

「菩南座」も“投げ銭”をやろうかなと考えたが、まさかミュージシャンを「演歌師」稼業の人達と一緒にする訳にはいかない。

ギャラが投げ銭で済むはずがないと思えば、保証金でやった方がまだ気が楽だった。赤字でもいつかは盛り返せると思った。

そして聴きに来てくれるお客さんが増えるようになればベストだ。しばらくの間はドリンク代+300円の格安料金で行くことにしたのだ。

??  この頃、情報誌「ぴあ」で、下北沢の酒場での“投げ銭ライブ”の告知を、何回となく目にしたことがある。

まだそんなに“投げ銭ライブ”が盛んでなかったときなので、興味半分に観に行ったことがある。その時の出演者は「妹尾隆一郎」だった。

??  下北沢の街は、今ではテレビで紹介されたりする、お洒落な流行ものの先端を行くみたいな感じがするが、

オイラの知っている下北沢は下町的な駅前商店街という感じがしていた。間口の狭い商店がズラリと並び、

スーパーは絶対に必要ないほどなんでもそろうところ。そして近くに明大、駒場東大、等があり、

成城学園に向かう世田谷道路には映画の撮影所やスタジオが点在していて、映画産業が盛んな時代に地方からやってきた若者にまざり、

学生や役者の卵に作家志望、絵描きさんとか、やたらと芸術関係者が多かった。当然、お金持ちはいない。

遊びに来てくれるお客さんに余り負担がかからない適当なところで“投げ銭ライブ”が始まったと聞いた。

??  60〜70年代の新宿駅周辺では、フォークゲリラなるものが出現したが、彼らは反戦運動やっている学生達である。

駅前の集会で反戦歌を歌って、平和を叫んでいた。そんな中には、ギターケースに「カンパをよろしく」と書いてあった奴もいた。これも“投げ銭”であろう。

今では「ストリート・シンガー」と言われて、駅前で歌っている若者をよくみかける。最近は外国人まで増えてなかなか賑やかなようだ。

そこでは“投げ銭”が当たり前のようだ。

??  1978年3月25日(土)、「及川正道&オー・マンゴー」ライブ、「ぴあ」の表紙でお馴染みのイラストレーター、及川正道先生

バンドのメンバーは6人ほどいたが、縮小してギターとベースが入って、「及川正道」はハープとヴォーカル担当でスタートすることになった。

始まるまでのリハーサルが大変であったのを思い出す。?? ステージ側に白いスクリーンを張り、カリフォルニアの砂漠の風景をスライドで流し、

それに合わせるようにして曲が進行する、チョット凝った演出である。店の中はバンドのスタッフに仲間たちと、友人や知人でぎゅうぎゅうのすし詰め状態でライブは始まった。

 ??  『オー・マンゴー』のアルバムには『四人囃子』のドラムス「岡井大二」や『夕焼け楽団』の「藤田洋麻」が参加している。

発売記念ライブに前後して、カリフォルニアツァーに行ったらしい(?)。その時の写真を何かの雑誌で見たことがある、

現地でツァー用のバスを買ったのか、それに「OH! MAN  GO!」とペイントをしているところや、ライブの写真が掲載されていた。

「菩南座」でも、詩情あふれるウエストコーストサウンドのライブは無事に終了した。

「及川正道」は横須賀生まれで、若い頃は基地の街のクラブで歌っていたこともあったと聞いた。その頃はプレスリーが好きでよく歌っていたらしい。

オイラと同世代なのでよく解る。あの時代では誰もが、ジュークボックスから流れるプレスリーやプラターズを聴いた覚えがあるでしょう。

レコードはモノラル盤でまだステレオ盤なんてないときだ。

??  “ゾウさん”の愛称で親しまれている「西岡恭蔵」ライブは、「菩南座」では実現することはなかったが、

3年後の1981年、ニューアルバム『ニューヨーク・トゥ・ジャマイカ』が発売された時期に、大和のバー「ぼんくら」に会場を移して行われた。

??  「西岡恭蔵&ハーフ・ムーン」のメンバーは、「西岡恭蔵」に「松田幸一(ハープ、マリンバ、コントラバス)」、「ケニー井上(ギター、ヴォーカル)」を加えたトリオであった。

このバンドはその後も定期的に大和のレストランでライブを行い、打ち上げによく「菩南座」を使ってくれた。

メンバーの中の「松田幸一」にはもう十年以上も会っていないが、はからずも映画『タカダワタル的』の中でハープを吹いている姿を見て、懐かしく感じた。

気がつけば、なぜか「高田渡」も「西岡恭蔵」もあの世に行ってしまっている、本当に惜しいミュージシャンを失ってしまった。

「西岡恭蔵」が矢沢永吉の曲を書いていたことがあることはあまり知られていない。

??  1978年!「菩南座」のライブはこの時期に、定期的にプロ・アマを組み合わせた、ライブスケジュールを続けていく足がかりが出来てきたのだ。

安いギャラで出演してくれたミュージシャンには感謝しております!

そして今も、昔とほとんど変わらない、良かったり、苦しかったりの状態をかかえながら、生きながらえている。!

つづく




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