不良少年


当時、貧しいオイラの実家では都立の高校へ入学出来なければ、そく就職と決まっていたのよ。

都立高の場合は学校の推薦がなければ受験なんて出来ません。勉強嫌いのオイラは遊びに忙しくて家を抜け出しては、

三軒茶屋の不良仲間と危険な遊びに夢中であるので、とても都立高校への受験の成績表は出来上がル訳がない。

それやぁ高校生活には憧れましたぜ、オイラは地元の世田谷の国士館高校へ行きたいと願ったが、

父親は国士館は規律を重んじる厳格な学校であると言い、賛成してくれましたが、

継母は私立の高校へ行かせるほど余裕は無いと、猛反対合い到底実現は不可能でした。

なれば自動車の免許がほしいし、バイクも乗りたい、欲望は果てしなくつづき燃え上がるのだが如何にせん、銭がねぇ〜

希望と夢だけが先行して現実が非常に遠く感じる時だった。 中学3年では本当の自分なんて解るわけがないかもしれない。

そこで渋谷の職業安定所へ行き相談の結果、東京職業訓練所の中に自動車科ってえのがあったのよ。

『これだっ!』自動車の運転免許に一歩近くなったと思いで、受験したのよ。

まぐれか? 合格いたしまして、鮫洲にある中央職業訓練所自動車科に入学したのである。

失業中の社会人の叔父さん達と一緒になって勉学、そして実技の実習などがありました。

昭和30年代の当時ではまだまだ自動車産業なんて大した事はなく、トヨタ、日産の一部で生産されていましたが、

      一般家庭に自家用車てぇのは程ほどに遠い話でした、そこで自動車の分解工学から車の仕組み等を勉強するのだよ。

まぁそれを1年ほど実習を含めた講義などが在りましたが、修理工専門の職業訓練ですので運転なんてやらせる訳がねぇ〜 

車が嫌いでは無いので学習には励みましたぜ、いろんな職業の経験者が大勢いましたので結構たのしく過ごせたと思う。

                                                                      

そこでは半年組と1年組とがあり、年長者は半年で習得して卒業と就職ですが、オイラ達中卒の餓鬼組はじっくり1年やらなければならない。

また、今では考えられない事だが、解体して組み立てる車が全部外国車ときたもんだ、ボロボロの廃車したフォードにシボレー、パッカード、ヒルマン?

アメリカ軍が日本を占領してから数年後、今から思えば東京中の視察に使う車がアメ車だった事を思い出した、

それらは駐在する将校や兵隊の車だったのだろう、世田谷の接収した豪邸の脇には違和感無くアメ車が止まっていた。



また、この頃には国士館は一般から道場への入門が剣道と柔道に限られて入門が許されていていたので、

親を説得して入門したのである。

中学時代は世田谷警察の道場借りて竹刀のすぶりに汗を流し、一端の剣客を目指していたから未練があったのである。

鮫洲から松蔭神社の道場まで急いで帰っても夕方の稽古に間に合わない事がしばしばありましたが、

幸いにして道場に住み込んでいた大学生がオイラの面倒を見てくれたので、

腕はあがり少年部では名札が前のほうに少しづつ上位に進むのがなんとなく嬉しかった。



                通学の帰り道は渋谷を経由して下北沢へ帰るのだが、ある日、宇田川町を歩いていると中学生時代の友人に出会う、

彼は三つ揃い背広に黒いソフトを被り、チョットしたスター見たいな感じだったなぁ、

○○組の誰彼の世話になっているのだと言っていた。まぁ愚連隊という奴です。

金回りも良さそうで『付き合えよ!』 なんて連れて行かれたのが音楽喫茶でした(当時はジャズ喫茶)

現在のライブハウスの様なもので、昼の部は珈琲か紅茶かジュース類で、夜の部は軽いお酒もつまみもありました。

演奏中のバンドは派手な衣装を着たイカシタリズムを刻むのよ、大袈裟にダンモのズージャ(モダン・ジャズ)は乗りましたネェ〜

なんか可笑しいのが、格好いい演奏の途中から?あれっ?テンポは代わらないのだが何時の間にか演歌になっていたり、

民謡にかわっていたりして実に愉快な演奏だった、後にそれが『クレイジー・キャッツ』というバンドである事が解る。

テレビ時代になり彼等はそれに乗り合わせた様に、売り出しスター街道をまっしぐらに進むのである。



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