悪餓鬼時代

1939年(昭和14年1月7日生まれ)うさぎ年、血液型A、

  小田急電鉄と京王帝都電鉄(井の頭線)交わる下北沢の駅があります。

南口の改札を下り商店街の道を南へ行きます。

小さなお店が並び、通行人は少なく米屋とか雑貨屋さんに金物屋、電気屋は「ラジオ屋」さんです。

そして三叉の道まで来ると左角まで来ると石のお地蔵様があります、少し先に八百屋さんと向かいがお風呂屋さんです。

更に南へ少し行くと桜並木に郵便局が見えてくる、菊水旅館の三叉路では右角に京染めやさんがあった。

クリーニング店、炭屋、まぁ、生活には欠かせない商店が続きます。

子供の頃の一キロは随分歩いたなぁと思います、左側に代沢小学校が見えてくると、あと少しでオイラの生まれた処です。

小学校にも桜並木あり囲む様に川に面して並木が続きます、お花見シーズンの人出は大変なものです。

橋を渡れば商店が極端になくなり、古い民家に混ざって大きな庭のある豪邸もありました。

また、近所には小さな印刷工場と東京測器株式会社(測量計器製作)等があり、お昼時の賑わいは感じていました。

また、オイラの家の町内に竹屋さんがあり、ここの親父さんの竹細工は子供ながらにも吃驚するくらいの職人でした。

竹を炉で炙り綺麗に曲げる工程は見事で、何が出来上がるのか楽しみでした。

あくる日になると完成した作品が店の前に飾られている、夏の夕涼みには欠かせない縁台でした。

竹屋の親父さんには良く叱られました、チャンバラごっこの棒代わりに竹を盗むからです。

まぁ下代田の『凛太郎』といえば餓鬼大将のお馬鹿さんで、チビ共を集めては戦争ゴッコの餓鬼大将である。

同じような馬鹿が町内をへだてた処にもおりまして、学校の宿題なんてやらないで戦争ゴッコで忙しい、



家の親父の仕事なんかまったく解らないときです、母親は身体を壊して入院する事になりました。

そして小学校低学年の頃に退院してきましたが、顔色が悪く身体が動かないまま、あっさり胃癌であの世へ旅立ちました。

オイラが長男で次男、三男、四男の野郎だけの男系家族です、妻を亡くした父親は途方に暮れた事でしょう。

兄弟達は地方の親戚に預けられ、次男は覚えていないが三男は前橋辺り、

一番幼い四男は信州の何処かへ預けられ、オイラは尋常小学校一年生の時である(昭和19年)BR>


1945年(昭和20年)時代は太平洋戦争は益々激しくなり、東京には毎晩のように定期的に米軍の爆撃機(B29)が来襲、

近くの陸軍病院へ慰問へ行った事も有りましたが、日本が負け戦になっているとは微塵にも思っていなかった。



三軒茶屋から三宿付近には陸軍(現在の昭和女子大辺り)の連隊があり、駒場(井の頭線駒場東大前)は近衛師団もあり、

代沢町周辺の丘や森には戦車が配備され、毎日勇ましい軍靴の響きが勇ましく道いっぱいに通れば、激しく日の丸が振られている。

また、父親はポツリと一言『いよいよお父さんも戦争に参加する時が来るかもしれない』・・・・

確かに近所の小父さん(隣近所の父親)達も四十歳以上でしたが赤紙(召集令状)がきたと言っていました。

警防団が各家を周り、『誰だれさんの出征をお見送りましょう』

なんて、モンペ姿のお母様が日の丸を振り振り亭主の無事を祈りながら、しきりに旗を振るのです。

門前で格好良く敬礼をして、足早に召集指令所に向かうのでありますが、意外と下代田(代沢町)は連隊が近くにあるので、

馬も馬車もバスも乗らずに行く事ができます、しかし当時は舗装なんて在りませんから、雨でも降ったらぬかるみだらけ、

現代では考えられないことです、まして戦車がぬかるみをさらにドロドロにしているから、

羽織袴のお爺さんなんかは袴を最上段にまくり上げたて、その下に長靴を奇妙な姿です。

オバァさまは紋付にモンペに?(筆者は記憶なし) 



ある御家族の出征記録(戦争写真から抜粋)


               本土決戦の構えを見せていたのでしょう。

まだ、そんなに深刻な様子はありませんでした。子供のオイラが見たものは大人達のあわただしい戦争です。

自宅の庭を掘り起こし防空壕を作ったり、大切な文献や書物を埋めている父の姿を見たことが在ります。



今、考えて見るとアメリカ軍はもうその辺まで来ている様な錯覚さえする。

空襲は更に激しさを増し、夜の空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り、

B29の轟音と共に焼夷弾をバラバラと撒き散らしてきます、そして民家の上に炸裂して火の玉が落下してくる。

焼夷弾の破片が逃げ惑う民衆の頭の上に落ちてきます。防火用水が町内のあちらこちらに在りましたが、なんの役には立ちません。

たちまち火の手があちらこちらで舞い上がり、近所の警防団の人が川のある代沢小学校の方向へ逃げろと指令を飛ばして回る。

民衆は防空頭巾をまぶかに被り、大人も子供もただ逃げて避難するのがやっとでした。

駒場の連隊の方向から高射砲の音が響きわたり、空は砲火の花が咲乱れ、全く弾が命中した様子は無くB29は悠然と飛んでいる。



夜中に空襲警報が解除されたが、遠くで火の手が上がりいつ延焼するかわからない、

道路と道路との境めが防火帯の役目をなして、明け方にはなんとか収まりました。

街の様子は一遍して変わりました、焼け出された人は家の中にある燃え残りを捜したりしています。

オイラの住家はかろうじて空襲には免れましたが、歩いて数分の処にある、竹薮の中の農家は古い藁葺き屋根の大きな屋敷でしたが、

一夜にして跡形も無く焼け出されていた。

  近所の住人達の中には瓦屋根の上に登り、飛んでくる火の粉を箒状の様なもので叩き落としたらしい?

そんな事が出来たのかどうかは定かではない。

昼間もサイレンが鳴る時があります、警戒警報ですが高い空に飛んでるアメリカ軍の偵察機であると言っていた。

数日したある日、誰かが電話線の鉛が溶け出して焼け落ちた民家の周辺の道路に大量にあると教えてくれた。

渋谷から来るバス道路に淡島車庫前というバス停があります、家から歩いてそんなに遠く無いにで、鉛を拾いに行きました。

確かに銀色に光っていて、水を流した様にベットリと道路にはりついていました。 それを棒でこずいて剥がしました。

空き缶を見つけてその中に一杯にかき集め持ち上げましたが、ズゥシリと重量感があり、かなりな重さになったのを覚えています。

持ち帰った鉛を父親は台所の裏庭で七輪に火を炊いて、空き缶の鉛を入れて溶かします。

硬い土の上にベーゴマの元コマの型をとり、溶かした鉛を流し込みます、冷やして取り出すとベーゴマが出来上がります。

しかし、重みのあるコマは軽い普通の鋳物のコマとでは勝負にならず、いつのまにかベーゴマをやる仲間が居なくなりました。



夏休み前の学校では軍国先生が体力ずくりに天突き体操と水泳が盛んに行われていた。

鬼畜米英の元に厳しい学業がおこなわれている。



相変わらずのB29の襲来も毎晩の様にやってきます。たまには陸軍の高射砲の炸裂弾でB29が撃墜される事があります。

父の話では新宿方面にて米パイロットが落下傘で降りた事があったそうです、

大勢の人だかりの中で米兵はボコボコ殴り倒され、蹴られて血みどろになっている光景を見たそうです。

憲兵隊に連行されるまで男は無抵抗に倒れていたそうである。 其の時、父は日本の敗北は近いと批判的な事を言ってました。



昭和二十年の夏にオイラと弟は父親に連れられて新潟県の出雲崎へ疎開しました。

疎開先はオイラの祖父が明治時代から昭和までの間、荒海の防波堤工事の現場の親分だったらしく、



そのは時代劇の様な古い屋敷が現存していました。飲料水のつるべ井戸が家の中の台所付近にあり、

また其の奥には白い土塀造りの蔵もありました、お祖父さんは「二階へは上がるな天井が落ちるぞ」と言っていました。

相当な時代劇屋敷であるのは子供ながらに解る気がしました。目の前が大きな魚市場で漁師が獲れた魚を並べているのを見たり、

食べらない魚を仕分けしていたりしているのを眺めたりしていました。

出雲崎ではは良寛和尚さんが有名人で誰でも知っていました、近くに和尚さんの寺もありました。

そして家内工業で始めて見たのが獅子舞の獅子の手彫り作業でした。

なぜか数件同じ作業の職場を見た記憶があります。大きいのから小さいのまで、越後獅子はこんな村にて作られていたのかが解る気がした。

村の小学校にも餓鬼大将がいまして、東京から来たオイラの喋りが面白がって村の神社で好く遊びました、餓鬼大将がストーリーを決めて、

悪役と善玉を決めてチャンバラをやるのだが、決められたストーリーであるので斬られ役は絶対に斬られなければならない、

ほとんど斬られ役のオイラは悪態をベラベラ言うので、ナマスの様に斬られても中々死なないので、餓鬼大将は斬られた箇所を赤チンで印をつけ、

決め台詞があるのよ、『う〜〜無念だ〜〜』これがないと終わらない、愉快な餓鬼の遊びでした。



夏休みに入りました、戦争はまだ終わってはいません。

日本は勝つのか誰にも解っては居ないのではないか、浜では毎日のように漁船は船出して行きます。

オイラは毎日浜に出て、荒海を眺めては泳いで防波堤まで行きたい気持ちでいっぱいでした。

あるとき叔父さんが尋ねてきて、オイラをボートに乗せて防波堤まで乗り付けました。

焼け付くような防波堤のコンクリートはいまだに忘れる事は出来ません。其の海の荒さは漁港を開くことも出来ない膨大な大きさだった。

うちの祖先は江戸か明治が解らんが、その防波堤工事の『戸川組』の組織団体であったらしい。

荒い海と浜の暮らし、馬鹿のオイラには気がつきませんが、産業の発展にはいろいろな努力をしたものと伺われる。

時代は代われども、その時の平和と幸せと夢と冒険がそこにあったのかも知れない。

空襲は毎晩のこと警報は鳴りましたが、米軍機は大都市をめざして出撃していたのだろう、出雲崎には着ませんでした。

家族は夜になるとご飯を炊いて握り飯を作り、いつ何時に爆撃があっても逃げられるように心がけていました。



暑い日でした祖父がポツリと言いました、「戦争は終わったよ」

オイラは当然日本が勝ったと思いながら聞いてみました、祖父は下を向いたまま「日本は負けたのだよ」と言いました。



それからの毎日ですが、いつもと変わらぬ日々がつづきました。 漁師さんは暗いうちから海に出て、越後獅子の木工所も木を削るおとがする。

新潟県の出雲崎はきれいな青い海と美味しい魚の名産地、のどかで静かな所で御座います。

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東京へは帰る予定は無いらしく、夏休み中は海へ行ったり良寛さんのお寺行ったり、毎日が平穏な時間を過ごしていました。

また今考えると学校の勉強なんてした記憶なんか全くありません。 

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渋谷周辺(戦略爆激機B29)来襲!
下北沢に帰ってきました、小学校へ行く事になりますが、マッカーサーの命令で教育方針が変わりました。

先生は軍国婆さんや爺さん達が沢山いまして、若い先生は戦地で亡くなったのでしょう。怖い先生の記憶以外ありません。

工事中!
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