戸川氏

ご先祖 戸川常の丞

祖父  戸川金蔵



(戦国時代から始まる祖先の話から、現代の今ある戸川家とは何者か?

不思議なめぐり合いから波乱万丈の世界を書き綴ろうと想った。

足跡を手探りで追い求め、ペンが走るままに書いてみた。

自分はもう80歳と高齢者だ、思い出せる小さな事等が書ければ幸せだ。)






       
むかしむかし 太平洋戦争中から


幼い頃の記憶にたどり話します。(小学校入学まえの頃)

まだ戦争をしているとは思ってもいない頃です、世田谷区下代田(代沢)に住んで居たころです。

凛太郎は池尻 現(池尻大橋)の本宅へ良く遊びに行ってました。

本家の祖母が戸川家の長男であるが故に溺愛し、母親から取り上げた様なかたちになりました、

祖母の甘やかした育て方が次第に我侭な性質が育ちはじめ、腕白小僧の出来上がりです。

大きな松ノ木に登って困らせたり、、池の鯉を石で襲撃して祖父に怒られたり、

ありとあらゆる悪戯、悪童坊主で近所でもそれは馬鹿みたいに有名でした。

下代田の家から父親が弟と迎えに来るとやっと帰宅の途に着く有様です。

ある夏の夜に池尻からの帰り道、提灯を三丁したてて暗い夜道を歩きます。

当時の世田谷にはまだまだ田舎らしく、畑や森に小さな丘があったり、それはかんせいな田園風景です。

提灯をぶらさげて歩くのが楽しかったのだろう、思いっきり走って転んだ事を今でも覚えています。

とても痛かった、舗装されていない田舎道だと思えば想像できるだろう、たいした痛みなど感じません

泥まみれになって消えた提灯をうらやましくみて『だから走るではない』としかられる。


渋谷から通じるバス道路があります。

淡島車庫前のバス停の近くの坂道を若林方面に向かう所に、大きな敷地の陸軍病院がありました。

下代田の町内会か病院関係の世話役さんかの話が出たのでしょうか、俺達小僧連中10人ほどの負傷兵の慰問に行きました。

何か演芸をするのでもなく、ただのお見舞い程度の事で女子は花束を渡していました。

広い敷地には緑が生い茂り、茶色い二階建ての病棟があり、若い看護婦さんが忙しそうに動きまわっています。

戦場で負傷した兵隊さんがベットに横たわり、一病棟に十人程の負傷兵が横になり、

顔のない人、足が無い人、目が無い、両足も無い人、今に想えばそれらは18〜20歳ぐらいの若者ではないのかな?

今にして想えば、戦争とは残酷な悲惨な事実であろう、

東京都世田谷の駒場の近衛師団、三宿の陸軍連隊は子供でも歩いて行ける範囲でしたので、

整列して軍靴をならし行進するのを幾度となく見ることがありました。

当然のこと戦争は日本軍が優勢であると想っていました。その内に昼間から空襲のサイレンを聞くようになる、

三宿の多門小学校前の高台に設置された大型のサイレンが響き渡れば、大空高く偵察機が見下ろしているのだ。

アメリカ軍は次の攻撃目標を探して飛んでいます、日本軍は大砲が届かない遥か上空をただ眺めるだけです。

その晩にはB29戦闘機が襲来してきました、親子は防空頭巾を被り父に手を引かれ防空壕へと急ぎます。

陸軍からの高射砲がドカッカーンなんて撃ちますが、これ、まったく当たらない、

夜空一面が花火大会のように火の玉が飛び散り、世田谷周辺の農家は藁葺き屋根なのでたちまち紙屑の様に燃え広がる、

森や林に延焼して次々と街の方まで延びてくる。

オイラの下北沢(下代田)の家から太子堂、三軒茶屋方面はバス道路を境に延焼して、ゴウゴウと竜巻の炎が夜空を焦がす。

消防団も手がつけられず大人は子供を抱えて逃げ回る、そして住民は防空壕へ非難するしかないのでした。

         必死に家を守ろうとする親父さん達は瓦屋根の上に登り、水で濡らしたモップ状の箒で火の粉を払い落とす。

木造やの建物はめらめらっと燃え始めたら手のつけ様がない、たちまちにしてその場は火葬場の釜の中でしょう。

1945年5月25日〜26日かけての「東京大空襲」は散々なものでした。それこそ生き延びた事が幸いであろう。

あくる日安否確認に池尻の祖父を訪ねたときは驚きました、防空壕へ非難して命は助かりましたが、

焼け出されてしょぼくれた老夫婦の姿は子供こころにも惨めに見えました。

池も見事な松から大きな屋敷門も消失して、跡形も残ってはいない、

女中さんはすでに田舎へ疎開していて老夫婦の二人、トタン板で囲い急場の雨露をしのぐ住まいです。

焼け跡から拾い集めた小銭が針金で結び付けられ、トタン屋根にぶら下っているのがいやに印象的であった。

それから間もなく戸川家の長老夫妻は新潟県の出雲崎へ疎開したのである。



祖父母は新潟県の出雲崎に疎開しました、その土地には明治時代からつづく戸川組の堰堤工事の別邸があり、

戦時中とはゆえ、当時は番頭から工事人、人足から小者にいたるまで朝鮮半島へ出張工事の真っ最中だったそうです。

出雲崎の出張所は明治時代の末期からただの空き家同然でしたので、まずは手入れをしなければ住める状態ではない。

職人が出入りする間口の広い玄関には、戸川組の看板が日に焼けて真っ黒な表札があり、時代劇に在るような長火鉢もあり、

台帳をめくる番頭の姿が目に浮かんできます、奥の座敷は十畳ほどあり、長い廊下の先には白い土蔵がありました。

また、台所に近い板の間には釣瓶井戸があり、冬でも水が汲めるように出来ているのは北国だからでしょう。

表の通りを面した向かい側は大きな魚市場で、荒波の中で網にかけた魚が市場に並べられている光景を何度とも無く見ていた。

あるときなど大量の鮫を引き上げているのを見たときは、子供ながらに大物だなと驚いたものでした。

食料にならない小さいアンコウが放り投げられ、畑の肥やしになるのかポイポイほうり投げている。

当時の出雲崎海岸は夏になれば小中学校の遠泳競技会が開かれる。

赤い締め込み(六尺褌)餓鬼の団体が先導する小船にしたがい競い会うのが学校の体育授業の一環とされていた。

沖の方に祖父達が工事したコンクリートの白い防波堤がゴール地点、ターンして戻りのコースがある。

漁師の親父達は仕事の手を休め、倅の応援に加わりデカイ声で叫んでいる、勇壮のままの子供は必死に泳ぎ切る。

日本古来の六尺褌の話は父に教わりました。

船が難破したり溺れたりしたときに褌をしっかり締めこんでいればどんな時でも掴み取れば解けることも無く、

難無く救助がする事ができた。 これが海水パンツであれば掴んでも暴れられたら脱げてしまい、

相手をパンチで気絶させて助けるしかないのである。また赤褌は海中でも良く目立つ印なのです。

お母様の赤い腰巻で作るのがベストで御座います。

元に戻り、オイラ達家族も超満員列車に乗り継ぎやっとこさ、出雲崎にやってきました。

落ち着いた処は祖父母は上の方と言いますが、下てでありますが子供の足で五分くらいと近い母方の民家です。

漁師小屋みたいな時代がかったトタン屋根の民家です、若い人達は兵隊さんになり外地へ行っています。

老人と子供がウジャウジャいる賑やかな部落であります。

この街で一番興味があったのは商店の大きなガラス窓から見える越後獅子の職人さん達です。

大きいのやら小さいのまで、荒削りのものを小刀で削り出すさまは、光る小刀の業物の切れ味です。

塗料はまた別の工房へ行くのでしょう、獅子舞用のもあれば、頭にのせる小型の獅子もある、仕上げまでは相当の時間を要したであろう。

オイラの兄弟は次男、三男、四男はそれぞれ別の親類に預けられ、オイラひとりだけが出雲崎でした。

尋常小学校一年生だったオイラは早速その街の学校に転校した。

入学してそうそう餓鬼大将と仲良くなり、裏山へ行ってはチャンバラごっこです。

かの有名な良寛和尚が祭られているお堂と小さな丘が、腕白小僧の陣地である。

それぞれに敵味方に分かれて戦争ごっこだよ、竹竿が刀代わりに腰にさして、侍言葉を言いながら戦闘開始、

本気で叩き合うのだからたまらない、指から腕から脛といわずアザだらけ、大将は用意が良いのには恐れ入りました。

休戦に入るとお互いに赤チンをそれぞれ塗り捲り、名誉ある傷のごとく自慢顔、ベソをかく泣き虫はいないことです。

年長の小学生は夕方が近くなると砂浜に飛んで帰り、親父の手伝いに向かいます。

漁を終えた船が浜に戻ってきます。戦時中の餓鬼は良く働いて親父の言うことを守ったのです。



出雲崎にも空襲警報が鳴りました。

アメリカ軍はここまで来るのかとおどろいた、空には確かに爆音が轟き今にも爆弾が炸裂するのではないかと空を見上げる。



真っ暗な台所では婦人会の人か警報団の人達が、いざとなれば山側へ逃げ込む算段をしているらしい、

めしはオジヤ(野菜や米など味噌仕立て)が用意されていて、鍋ごと山の中へ逃げ込むのです。

その夜は幸いにしてB29は新潟都心部に向かったらしい。



天気の良い日は裏山へ登り、遥か佐渡島をのぞみ日本海の荒波の勇壮さに、木陰はすづしく風がさわさわ〜

戦争の事は忘れてしまう、知らない親戚の人が祖父母のところへ来ては東京の話をして帰る、

真夏の暑い日にお爺様がオイラの前に現れ『これ、凛太郎 戦争は終わったぞ!』

一言いうと空を見上げながら東京方面に頭を下げ、寂しげに歩いてゆく、

オイラはその手をとり聞きました『日本は勝ったのか?』

爺様はたった一言『日本は負けたのだよ』打ちひしがれた死人の様なよれよれな姿は惨めであった。

東京の様子は途切れ途切れのニュースでは全く解りません。

敵国が日本上陸したら竹槍で迎え撃つ用意は出来ていたはずであるが、一向に静まり返った村では話にもなりません。

漁師は毎日の仕事に黙々と船を出し、食料になる魚を獲るのに忙しい、米どころの新潟平野では秋の刈り入れであろう。

軍隊に米から野菜から何から何まで供出したものだから、都会では食糧難になり食い物の奪い合いの食料戦争の始まりだ。

オイラも東京へ帰ることになり、超満員列車に揺られて丸々一日半もかかって上野に辿り着きました。


世田谷区下代田(代沢町)へ着きました、自宅は焼けることもなく無事で、

近所で離れていても100m先の農家の藁葺き屋根で竹薮で隠れている処が、焼夷弾にやられ全焼していた。

一番近所の竹細工やも東京測器会社(光学レンズ)も事務所側も工場側も被害はありません、

しかし、直撃をくらったのか本工場は全焼してレンズの欠片が一面にちらばっていた。

凸凹の軍隊道路を行けば陸軍病院はそのまま残り、三宿方面の多門小学校は二宮尊徳の石像が残し全て消失していた。

玉川電車の三宿の連隊辺りから三軒茶屋方面の一部が無くなっていた様に思います。

当時の世田谷周辺では舗装道路はバス道路と二子玉川線の路面電車以外は舗装道路はありません。

むかしの農道が広くなった位の道を、牛が引いた荷車とか馬の荷馬車なんて当たり前に糞を落としながら通ります。

それは大事な畑の肥料にもなります、農家は人糞を買いに民家を回ったりする時代なんて考えられないだろう。

そして長閑な世田谷は土が良いのか、どんな野菜でも庭さえあれば農園ができます。

オイラ達悪餓鬼どもは夏は収穫の時期でありまして、あっちの庭こっちの畑とおやつには事欠きません。

味噌か塩を持って畑に忍び込んで、その場でトマトやキュウリなどをボリボリ食い荒らします。

青臭い味がなんともいえず新鮮に美味しく感じたものです。

農家の人達はオイラ達の仕業と知っています、畑仕事の邪魔にならないように隙をうかがいます。

広い畑の茂みに隠れて静かに作業をしているのとは反対側からそーッと忍び込むのです。

欲張らないで美味しそうな熟れたトマトをねらったら、それを腹具合に合わせて食べてずらかります。

トウモロコシの場合は面倒なのがそのまま食えないことですが、十本も盗めば上々で二人では食いきれない。

また、七輪を秘密基地まで運んでおかなくてはいけない、また、近所の親父さん達に知られているので危険が伴います。

子供が火を使う事は昔から禁止されていて、何処の家庭でもしつけとしてマッチの持ち出しは重罪でした。

秋になると何処の家でも柿木が当たり前のように美味しい赤い実をつけ、オイラ達を呼んでいる、

また、何処の柿が旨いかしっています、渋柿をたくさん獲ってきて舌が痺れたこともあるが、それは地域の勉強不足だからである。





東京は地獄の世界の始まりです、

深刻なのは食べ物が無い、食糧難の時代です。

親父はしきりに浮浪者の話や物乞いの話を聞かせ、食事は残さず不味くても我慢しなさい。

薩摩芋やジャガイモなんてのは最高級の食料です、昼飯なんてのはキャベツとナスの茹でた奴に塩をかけて食べたよ、

アメリカ軍のジープはほこりを舞い上げ、下北沢の高級住宅地へ突入して行きます。

戦犯の大将や将校捕獲だろう、とにかく内地にいた軍人の上級将校は片っ端から引っ張って行きましたからね。

刀狩りに黒い兵隊も白い兵隊も狩り出され、トラックに山積みした刀を抜て桜の木の枝を斬りながら走ってゆく、

それを見た日本人のお年寄りはじっと兵隊を睨みつけ、微動だに動かず腕をブルブル震わしていた。

相当、悔しかったのであろう、侍の国が滅び行く姿が・・・・・・



親父は子供達を集めてこんな話を聞かせてくれました。戸川家は軍人の家ではありませんが、

戦争には反対派であったろうと想う、諸外国に友人がいたせいか朝鮮人とか支那人の悪口をいったら、

物凄いお叱りを受けたものです、後に聞くところによると戦時中の『戸川組』は祖父の番頭から土工(土方)達

大勢の人足達が渡航して働いていたそうである、然るに敗戦と同時に敵の手を逃れ命からがら連絡線に乗り込み、

逃げ帰って来たと聞かされた。ある時、親父の留守のとき書斎に忍び込み大きな机の引き出しを開けてみると、

そこには見たことも無い外国紙幣がギッシリ入っていました、それで数枚もちだして遊んでいたら、

親父に見つかり物凄く叱れた事を思い出す、すなわち外国の金と言うだけでスパイの活動家と想われる時代です。



また、悲惨なアメリカ兵の話があります、毎夜の空襲で飛来するB29にめがけて陸軍の高射砲が目くら滅法に撃ちます。

それに炸裂弾がマグレに当たり、爆撃機は火を噴き墜落しますが、そのとき地上めがけて落下傘が降下してきます、

日本軍の探照灯に照らし出され完全に逃げ場はありません、

しかし、それがB29の地上攻撃の目標になり集中攻撃の目標になってしまい、探照灯は消えて無くなりました。



撃墜されたB29の航空兵は、どうしたろう?10名以上の兵士が乗り込んでいた筈である。

史実によると重量級爆撃機B29は東京上空において可也な犠牲を払っているらしい?

勇猛果敢なる日本軍を甘く見たから犠牲者は大量に出たものと推測されます。

あく翌日の話で、アメリカ兵が落下傘で世田谷の田園地帯に降り立ったらしい?

当然毛色の違う人種はすぐに捕獲され、人に囲まれ無抵抗の白人を滅多矢鱈と鍬や斧で叩いて半殺しにしたらしい、

そんな姿を親父は目撃したのです。

『日本は間違っている、こんな事をしていたら日本は負ける』

親父はつぶやいたそうだ、鬼畜米英の時代に日本人がこんな事を言ったら非国民と言われ、監獄ゆきです。



死体か、ボロ雑巾の様になったアメリカ兵は憲兵隊に逮捕連行されたそうです。

(終戦後、無事にアメリカへ帰国できたかな?)



餓鬼の頃 第二部 わんぱく戦争


進駐軍すなわち(米占領軍)のマッカーサー元帥により国民尋常小学校から、世田谷区立代沢小学校にいきなりなりました。

オイラは軍国婆先生は変わりなし、ビンタなんて変わりなく体罰はあたり前の時代からいきなり民主主義だからね。

遊んで暮らしていた子供時代のオイラには勉強なんて馬鹿馬鹿しくてやる気が全く無い、

それも悪餓鬼の集団する場所する学校ぐらいにしか思っていなかった。

まづ学校の成績表はいつも最下位で、自慢出来るものは何も無く、やっとなんとか運動ぐらいなものでした。

当然、落第をしましたよ、算数が苦手だったし国語もまるっきりで、ようやくカタカナが読める程度だのだ、

実録
戸川組 解散!明治期終了続いて大正〜昭和〜平成まで〜
                   







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