戸川氏



餓鬼の頃 第三部 わんぱく戦争


戦争が終わり世田谷区下代田の住民は食糧難の時代となり、街の中はリックサックを背負った人が目立ちます。

こんな日本になるとは誰が想像したであろう、噂では上野駅周辺では戦争孤児がうろうろしていたり、

帰国して来る復員兵が東京の街に溢れ、旧軍隊制服姿に大きな荷物を背負う姿はどの街へ行っても見られた。

また、物乞いをする傷痍軍人が混雑する列車に乗り込み、白い入院服のまま赤十字の箱をかかえて銭を求める。

食料は米国通帳(配給制)が発行され、米を買うたびに配給帳に記録され、それ以上はお金があっても買えません。

そこで現れたのが闇米売り売人みたいに現れ、これが麻薬の秘売人と同じですからパクラれます、

頭の良いヤクザが米の産地へ直送のトラックを走らせ、札束をはたいて大量に買い占めてゆきます。

東京は畑が無いので当たり前のように闇米は売れます、そうして闇の商人はぼろ儲けしたのです。

自力で田舎まで出向いての買出し部隊もたくさんおりましたが、

終着駅では巡査が厳しく見張っているので、大きな荷物はバレバレです。

列車の中までくまなく見て周りますので、荷物を列車から外へ放り投げ、自分も脱出してあとから回収するのだ。

オイラも親父に連れられて遠い親戚か、知り合いか解りませんがリュックを担いで食料を買いに行った記憶があります。

また、母親に手を引かれ小田急線沿線の農家を一軒一軒歩いて訪ね周り、物々交換をしているのを見ました。



兄弟達三人は疎開先からひとりづつ家に戻って着ました。次男は信州だったか金沢だったかその辺は解りません。

三男は前橋である事は後に知ることになります、一番小さい四男坊主ですが家が落ち着くまでしばらくは帰って着ませんでした。

オイラは国民学校1年生でしたが、学校へ行くには行っていましたが勉強した記憶がほとんど無い、

そんな事ですから当然に落第です、そんな時に学制改革がありオイラは小学1年からやり直しです。

たいした気にする事はないが、近所の先輩餓鬼大将は『や〜い落第坊主』なんて馬鹿笑いして騒いでました。

うちの家族は勉強なる事を教えるなんてのは丸っきり無く、すべてが自由行動で遊びに夢中になり、飯の時間は忘れずに帰宅、



自宅にお風呂は在りましたが、沸かして入った事はない、その当時は炭にしろ薪にしろ庶民が必要とするものが、

全ての物が高騰していて、夏は行水、冬は一週間に一度の銭湯通い、餓鬼の遊び場としては同級学年や餓鬼で一杯になり、

楽しいのは銭湯に決まっています。また、後の話になりますが家出をしたときは銭湯に行き閉店するまで入っていれば、神社のお堂にの中に秘密基地を造ってあったから、気持ちよい時代!

そこには味噌ダルか漬物の桶があったのと洗濯桶と洗濯板がセットである。

いつもは兄弟揃って銭湯へ出かけます、当時の世田谷には歩いて五分か十分程の処に銭湯が三軒程ありました。

何処の銭湯へ行っても男女別の入り口と高い位置の番台があります、

そこで子供の料金を払い、天井の高い板の間の脱衣所になっていて、現在の様なロッカーなんてのはありません。

       脱衣所には大きなザルが積んであり、それを板の間に置いたら着ている服をそこに入れるのです。

貴重品は誰も持ってきません『板の間泥棒』ってのがいまして用心しないと金目の物は盗まれます。

幸い地元の人の集会場みたいなものですから、よそ者は滅多に入ってきません、逆に目立ち過ぎるでしょう。

風呂場はこれまた大きく湯船の上には富士山と帆かけ船の絵が描いてあります。この風情は江戸ではたいがい何処も同じです。

銭湯で楽しいのが近所の同級生達と一緒になり、ワイワイ騒ぎ回り風呂場も遊び場と化す訳です。

そこで職人風のやかましい爺さんあたりに叱られのが日常である



戦後の時代には銭湯の燃料不足か、井戸水の給水が間に合わないのか、余りの多人数お客の為に水不足になり、

満員電車みたいにギュウギュウで湯に浸かった記憶は忘れられません、今では考えられない大事な状況であった。



また、真冬の湯上りの帰り道で手拭をぶら下げて帰りますが、家に着く短い時間で手拭が板のように氷つきました。



次男が小学校の1年生になって暫らくした頃だとおもいます。

母親が具合が悪くなり病院へ通う様になりました、家では親父は仕事に行くので看病人が居ません。

そこで池尻の祖母が兄弟の面倒に来ていましたが、母親の方は入院することになり家には祖母と兄弟だけとなりました。

今に思えば相当な重病であったのであろう、入院は長期かかり、それがまるで様子は解らないままでした。



ある昼下がりに突然に母親は看護婦さんに抱えられて家に帰って参りましたが、まるっきり元気などありません。

その内に親戚が来たりいろいろ在りましたが、ある晩、寝ている所を父親に起され母の寝所に行きますと、

これが虫の息と言いますか、苦しいかすかな声でに名前を呼んでいましたが、餓鬼のオイラには解らないが、

それが死後の最後の言葉にはなっていたのかどうか解りませんでした。



   





ボヘミアン・ラプソディは興奮しました、劇場で観なさい、お勧めです!

そんな時に母親は急病になり、旧陸軍病院へ入院することになりました。

1947年(昭和22年)(現在の学校)

小学校1年

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